シリアスゲームサミットGDC2005 (2)

Theory of Fun by Raphael Koster
「Theory of Fun(楽しさの理論)」の著者であるRaphael Koster氏は、人間の情報処理、認知の仕方に絡めて、なぜ人が楽しいと感じるのか、ゲームが持つ価値や機能について次のように解説した。


 人は頭脳に入ってくるデータを扱う際に、それらをパターン化して理解しようとする。パターン化できない状態が続くと、ストレスを感じて、理解しようとするのをあきらめてしまう。パターン化できるようになると楽しくなってそれを追求するが、そのうち慣れてしまって飽きてしまう。子どもたちは、ズボンのはき方を覚えるのにひと月もかかるが、物事のパターンを発見するのはとてもすばやい。パターンは頭脳の中のパターン貯蔵庫のようなものに収められる。この機能がないと人間は情報認識がうまくいかなくてまともに生きていけない。
 ゲームは認知問題のパズルであって、パターンを学習するまで人はそのゲームで遊ぶ。いったんパターンをつかんでしまうと飽きてしまう。○×ゲームは誰もが退屈なゲームだと知っているが、数学的にはとても意味の深いものである。知っていることとそれを使って物事を考えることが別であることを示している。
 基本的にすべてのゲームはエデュテイメントである。物事の関係を教え、探索することを教え、正確に物事を行なうことを教える。ゲームはストーリでもなく、グラフィックでもない。それらは全てゲームを構成する要素である。
 ゲームは多様な見方をされる。たとえばドラマのソプラノはマフィアの話ではなくて、つながろうとする家族の話である。映画のダイハードは爆発や銃撃を描いた映画ではなく、妻と再会しようとする男の話である。同じようにゲームを人々は違った世界観で見ることを知る必要がある。プレイヤーはゲームを可能な限り予測可能な状態に置こうとする。それは熟達を意味するが、同時に飽きられることを意味する。それは全てのゲームが持つ宿命である。
 長く親しまれてきたゲームの多くは、競争的要素を含んでいる。競争はプレイヤーの楽しみを継続させる要素である。多人数参加型ゲームのデザイナーは、プレイヤー同士が楽しみを生むパズルを提供しあうような環境を作ろうとしている。また我々は、ゲームはプレイヤーを一つの解へ導くものでなく、何通りものゴールや解釈が可能なパズルを提供するものであるべきだという議論をしてきた。
 ゲームは別々のところにいる人々の間を橋渡しをする。ゲームの提供するパズルがアートの提供する価値と違わぬところまで来ている。娯楽のため作られるゲームとアートとしてのゲームとの差は存在しない。
 適応性や柔軟性は新しい状況に対応するのに不可欠である。ケイブマンの時代には狼について学ぶことは重要だったが、重要なものは変わる。しかし学校はいつまでも狼のことを教えているようなもの。もっと関連したスキルを学ぶ必要があるのだ。そうした状況に、ゲームはどのようにかかわることができるか?