先日出版しました「シリアスゲーム−教育・社会に役立つデジタルゲーム」(藤本徹 著、東京電機大学出版局)の中身をご紹介する「立ち読みコーナー」です。今回は教育分野に関心のある方向けの内容を本書から一部抜粋してご紹介します。
ゲームと学習の関係を阻害する3つの誤解 (本書P7-9)
このように,ゲームを教育,あるいは学習のために利用するメリットは大きく,さまざまな分野で常に注目されてきた。しかしその一方で,ゲームに対する無理解や誤解も同じく常に存在し,そのことがゲームと教育・学習の関係を阻害してきたという面もある。そのゲームと学習の関係を阻害する誤解とは,次の3点に集約できる。
(1)「学び」と「楽しさ」に関する誤解
(2)「学び」と「遊び」に関する誤解
(3)「学び」と「つらさ」の関係に関する誤解
(1)「学び」と「楽しさ」に関する誤解
「楽しさ」という言葉はさまざまな文脈で用いられる。仕事や生活から満足や喜びを得ることを表現する時,遊園地や公園で遊んで得られる娯楽的な満足や喜びを表現する時,あるいは,冗談やいたずらで愉快な気分を表現する時も,いずれも同じ「楽しさ」という表現が使われる。どんな文脈でも使える便利な言葉ではあるが,このことが,教育の場で「楽しさ」を考える時に誤解を生じている面がある。
マーク・プレンスキーは,著書「デジタルゲームベースド・ラーニング」のなかで,この「楽しさ」の概念の多義性からくる誤解について指摘している[7]。学習における楽しさというような時に,英語では“fun”を用いるが,そのfun には,日本語の楽しさと同じく,娯楽的な楽しさを表す“amusement”や,“Making fun of”のように悪ふざけやからかいといった意味も含まれる。そのため,教育サービスを提供する側が「教育に楽しさの要素を盛り込む」という提案をした場合,その意味するところを共有していない受け手は,学習内容に関係のないお遊びや冗談の要素を盛り込むようなことはしてほしくない,という反応をする場合が多い。そして,時にこの関係は逆にもなる。教育サービスの受け手側が,学習内容そのものに楽しさを見出すようなコンテンツを期待していたのに,出てきたものは学習とは関係のないギミックやミニゲームで飾り付けられただけのものだった,ということも生じている。これは後述するように,「エデュテインメント」というコンセプトが注目された頃によくみられた現象である。
(2) 「学び」と「遊び」に関する誤解
「遊び」という言葉においても同様の問題が存在している。日本語の「遊び」とは,英語の“play”に対応するが,どちらも前述した「楽しさ」と同様,多くの文脈で利用される多義性の高い言葉である。「遊び」については,多くの思想家や研究者がその概念を探求し,学習と関連づけて論じている。古典的な例として,フランスの思想家,ロジェ・カイヨワが,その著書「遊びと人間」のなかで,遊びを「アゴン(競争を伴う遊び)」,「アレア(運や賭けを伴う遊び)」,「ミミクリ(真似・模倣を伴う遊び)」,「イリンクス(目まいやスリルを伴う遊び)」の4つに分類している。そして,強制されず,現実と離れた仮定のなかで行われ,何らかのルールや設定のもとで行われるものとしている[8]。
学習における遊びの重要性を示す例としてよく出されるのが,「子ライオンの戯れ」の例である。ライオンの子どもたちが,お互いにじゃれあったり,蝶や虫を追いかけているのは,そのような遊びを通して,戦いや狩りの仕方を学んでいる,という話である。児童心理学者や発達心理学者たちの研究からも同様のことが指摘されているほか,クリス・クロフォードのようなゲームデザイナーもこの例を引いて,「遊びは学習の根源的な方法である」と述べている[9]。
しかし,一般的に「遊び」という言葉は,子どもの遊びや悪ふざけといった,不真面目さや他愛もないことというニュアンスで捉えられることが多く,仕事の文脈で使っても,なかなか字義どおりに受け取られないことが多い。
(3) 「学び」と「つらさ」の関係に関する誤解
また,「学習とはつらさを伴うものである」という通念にも誤解がある。身体的なスキルの習得でも,知識の獲得でも,何かを学んで身に付けるためには,身体や頭脳にある種の負荷をかけることが必要となる。それは時につらいものであったり,苦痛や我慢を伴うものであったりする。しかし,だからといって,「つらくなければ学べない」ということではない。学習時に身体や頭脳にかかる負荷をつらさとして感じるかどうかは,学習の質とは関係しない。ところが,つらさに耐えて学習目標を達成するというような「成功体験」を持つ人ほど,そのつらさによって学習が起きていると考える傾向がある。そのような人たちは,楽しさや遊びに学習を結びつけて考えにくく,学習の効率や効果を高める工夫への意識も低くなりがちである。結果として,ゲームを教育に利用するという取り組みには関心を示しにくい。